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農業写真家 高橋淳子の世界
ほしひかるの蕎麦談義【バックナンバー】

ほしひかる

☆ ほし ひかる ☆


昭和42年 中央大学卒後、製薬会社に入社、営業、営業企画、広報業務、ならびに関連会社の代表取締役などを務める。平成15年 「江戸ソバリエ認定委員会」を仲間と共に立ち上げる。平成17年 『至福の蕎麦屋』 (ブックマン社) を江戸ソバリエの仲間と共に発刊する。平成17年 九品院(練馬区)において「蕎麦喰地蔵講」 を仲間と共に立ち上げる。平成19年 「第40回サンフランシスコさくら祭り」にて江戸ソバリエの仲間と共に蕎麦打ちを披露して感謝状を受ける。平成20年1月 韓国放送公社KBSテレビの李プロデューサーへ、フード・ドキュメンタリー「ヌードル・ロード」について取材し (http://www.gtf.tv)、反響をよぶ。平成20年5月 神田明神(千代田区)にて「江戸流蕎麦打ち」を御奉納し、話題となる。現 在 : 短編小説「蕎麦夜噺」(日本そば新聞)、短編小説「桜咲くころ さくら切り」(「BAAB」誌)、エッセイ「蕎麦談義」(http://www.fv1.jp)などを連載中。街案内「江戸東京蕎麦探訪」(http://www.gtf.tv)、インタビュー「この人に聞く」(http://www.fv1.jp)などに出演中。
その他、エッセイスト、江戸ソバリエ認定委員、「東京をもっと元気に!学会」評議員、「フードボイス」評議員、 (社)日本蕎麦協会理事、食品衛生責任者などに活躍中。

ほしひかる氏
1944年5月21日生

【6月号】
第24話 お国そば物語 ① 「献上、寒晒し蕎麦」

 

 若いころ、厳寒の諏訪湖畔で過ごしたことがあるが、九州出身の私にとって真冬の諏訪湖の氷の厚さの凄さは目を見張るほどの驚きであった。
 そうした気候と豊富な水を活かして諏訪地方では、寒天、凍み豆腐、凍り餅、寒晒し粉の団子や、寒晒し蕎麦という珍しい蕎麦などが作られていた。
 寒晒し蕎麦というのは、寒の入りのころ、冷たい清流に玄蕎麦を10日間ほど浸して、引き上げ、天日と寒風に約1か月間晒してから、さらには土蔵で夏までゆっくり熟成させた、特別な蕎麦であるという。
 江戸時代、高島藩の諏訪家と高遠藩の内藤家では、この寒晒し蕎麦を「夏の土用蕎麦」として、江戸の将軍家へ上納していた。したがって、この蕎麦のことを「献上、寒晒し蕎麦」とも称していた。献上するようになったのは寛政元年(1789)のことだという。このときの高島藩主は7代目の諏訪因幡守忠粛(1781~1816)、受けた方は第11代将軍家斉(1773~1841)であった。諏訪の村民が先述のような方法で作った「寒晒し蕎麦」は、諏訪の高島城から一旦、江戸の芝将監橋角(港区芝二丁目)の諏訪藩上屋敷に運ばれ、そして江戸城の将軍様に献上されたのであろう。

 

 茅野市ではその「献上、寒晒し蕎麦」を復元し、広く知ってもらうおうとの思いから今日、茅野商工会議所主催の「試食会」が開かれた。
 それに先立つ昨年の秋、茅野八ヶ岳そば振興会議主催の奉納祭が諏訪大社で厳かに行われた。
 茅野商工会議所の方に教えてもらったところによると、先ず「寒晒し蕎麦」にする玄蕎麦の清祓式を行い、同日に新蕎麦奉納祭が催された。奉納祭は、諏訪大社の神楽殿で蕎麦粉1.5㎏を打つことから始まった。蕎麦打ちは、蕎麦職人3人に補助1人が、練り方、打ち方、切り方を担当した。打った蕎麦は3台の三方に盛って、それを持って幣拝殿へ移動し、神前に供えたという。

 さて、試食会の会場となった日麺連の会館には、(社)日本蕎麦協会の谷垣会長をはじめとして70~80名の方々が見えていた。
 供された「寒晒し蕎麦」は、香り、甘み、コシとモッチリ感があり、旨い蕎麦だった。お伴の野沢菜も味わい深かった。
 1789年ごろ、諏訪忠粛が献上した寒晒し蕎麦を江戸城の将軍が食したであろうことを想像しながら頂くと、さらには浪漫の味が加わって至福の一時に浸ることができた。

 

 ところで、この第11代将軍家斉であるが、史上でも希有な人物として関心度が高
い。何が希有かと言えば、家斉はあの「大奥」の主として有名な将軍だったのである。     
 1779年に第10代将軍家治の世嗣・家基が、そして続いて将軍家治までもが急死
すると、家斉の父・一橋治済は田沼意次と裏工作をして、15歳の息子を将軍職に就けた。ところが家斉は将軍になるや田沼意次を廃し、松平定信を老中に登用して寛政の改革を推進した。しかし、寛政の改革が厳格に過ぎたために嫌気がさし、父と協力して今度は定信を罷免した。その後、家斉は政治を老中首座の水野忠成に任せて自らは豪奢な生活を送り、その結果政治は腐敗した。そして水野忠成の死後は水野忠邦が後任となり、その後は間部詮勝や堀田正睦や田沼意正(意次の四男)などを重用した。1837年、家斉は子の家慶に将軍職を譲ったが、実権は握り続けたのである。
 史上に名高い田沼意次、松平定信、間部詮勝、堀田正睦らは、将軍を上手に操って意のままに政治を行っていたかのように言われるが、実は将軍家斉の方も彼らを操っていたことが上の正史から覗える。
 次に、裏面から彼を見てみよう。家斉の時代は最も大奥が活用された時代であった。妻妾の数40人以上、御落胤は数知れずおそらく53人~100人の子をもうけ、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあったという。彼の治世を文化文政期というが、歴史では成熟期として位置づけられ、町人の間で「粋だ、乙だ」という価値基準が生まれたころでもあった。当然、美食を求める江戸城でも珍しい土用蕎麦を望んだ。そして、料理界では醤油、味醂、砂糖、鰹節が勢揃いし、江戸の味すなわち蕎麦つゆが完成したのが化政期であることは蕎麦通ならご存知であろう。したがって、諏訪家から献上された寒晒し蕎麦を家斉将軍は現在とほぼ同じ味のつゆで口にされたものと想われる。

 ついでに、目を大きく見開いて世界を見てみると、諏訪家が寒晒し蕎麦を初めて献上した1789年というのは、歴史的にも実に面白い年である。先ずジョージ・ワシントン(57歳)が初代アメリカ合衆国大統領に就いた年であり、またパリ民衆のバスティーユ襲撃によりフランス革命が始まり、ルイ16世(35歳)とマリー・アントワネット(34歳)が追われた年でもあった。1780年代のフランスというのは財政赤字が大きな問題になっていた。赤字が膨らんだ主な原因は、(1)ルイ14世時代以来の対外戦争の出費、(2)アメリカ独立戦争への援助、(3)宮廷の浪費などであったというが、この宮廷の浪費のひとつが前号の第23話「王妃カトリーヌ・ド・メディチ」でふれた宮廷の宴だったのである・・・・・・。

前回(第23話)と今回(第24話)で見るように、各国とも成熟期に料理が発展していったことはまちがいない。
だから、郷土名産、お国名産の「献上、寒晒し蕎麦」も旨いはずである。
(エッセイスト・江戸ソバリエ認定委員)

 

参考:茅野商工会議所主催「献上寒晒し蕎麦、試食会」資料(平成20年2月20日)、日本の食生活全集⑳『聞き書 長野の食事』(農山村文化協会)、『新編 物語藩史』(新人物往来社)、北島正元編『徳川将軍列伝』(秋田書店)、ほしひかる著『蕎麦談義』 - 第23話「王妃 カトリーヌ・ド・メディチ」、
写真:茅野市民新聞社

 

 

第25話は「蒲鉾の板」を予定しております。

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