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鈴木貞夫のインターネット商人元気塾
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

農業写真家 高橋淳子

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【6月号】


<コンビニ創業戦記> 第3回
・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・


「東京丸物時代」
「悲運の百貨店」


東京丸物は、「悲運の百貨店」であったと云えるかも知れない。

流通の55年体制とも云うべき「百貨店法」の適用第一号となったからである。

その頃の日本の商業は、敗戦後の闇市マ―ケットの時代から、漸く家族経営中心の生業的な中小商店の時代を経て、当時唯一の大規模小売業であった客貨店の時代が来ようとしていた。

日本経済の復興と共に、生産と消費の回復が進み、百貨店業界は大型化と多店舗化を図り始めていた。

それに伴って、中小商店の反発と危機意識が強まっていった。

特に、関西系百貨店の東京進出が相次ぎ、注目を集めていた。

昭和29年(1954)10月、「大丸」が東京駅八重洲口へ、昭和32年(1957)5月、「そごう」が有楽町駅前へ、鳴り物入りで賑やかに進出した。

「東京丸物」は、関西系百貨店の東京進出第三陣であった。

「東武」「小田急」「京王」などの電鉄系の大型百貨店が誕生するのは、それから10年以上後のことである。

中小商店組織や周辺の商店街は、急激な百貨店の進出や大型化に危機感を募らせ、猛烈な反対運動を展開し、社会問題化することになる。

これを背景に、昭和31年(1956)、百店法が復活し制定される。

百貨店法は、「中小商店の保護を目的に、百貨店が売り場面積の拡大や新規店舗を開設する場合には、すべて通産大臣に許可をうけなければならない」というもので、百貨店にとり非常にきびしいものであった。

これは将に、日本流通の55年体制ともいうべきものであり、後に、昭和48年(1973)に大店法(大規模小売店舗法)に変容していくのであるが、その後の日本商業の近代的発展にとって、大きな制約を加える事になるのである。

21世紀初頭の今日まで、日本商業が未だ十分に克服し得ていない後進性や非合理性を、長く温存し続ける元凶となったと云えよう。

「東京大丸」「有楽町そごう」が百店法施行前の出店であったのに対し、「東京丸物」は百貨店法の適用をまともに受けた。

売り場面積を二分の一に削減されるなど、百貨店としては致命的な制約の中での開店を余儀なくされるのである。

着任するや、私は紳士肌着売場の担当者となり、販売計画立案や仕入れ、販売員教育など開店準備に奔走する。



<人、人、人で埋まったオ―プンセ―ル>

昭和32年(1957)12月、「東京丸物」は池袋駅東口にオ―プンした。

奇しくも同じこの年、ダイエ―が大阪千林に創業していた事は、そのとき私はまだ知らない。

「東京丸物」の開店セ―ルは、異常なほどの人気を呼んだ。

未完成で建築中の足場に覆われたままの店舗の周りを、幾重にもお客様が取り巻いた。

入場制限しながら、入店して頂く事になった。

売場は,ラッシュアワ―の通勤電車並の大混雑が続き、売り出し商品は飛ぶように売れた。

まともにレジを叩いている暇はなかった。ダンボ―ルの空き箱に売上金を貯め、後でまとめてレジに打ち込む有様であった。

売場の中は、空きダンボールの山がうず高く積もり、私たちはその上から身をかがめて接客した。

12月だというのに、冷房がフル回転されていたが、それでも店内は真夏の炎天下のような暑さであり、誰もが、終日、汗だくで売りまくった。少しも疲れを覚えなかった。

その後も、幾度か大売出しが開かれ、それなりに盛況であったけれども、この時に勝る熱気には未だに出会ったことはない。

今から考えれば、やがて本格化する大量販売大量消費時代の前兆であったかもしれない。

まるで嵐のような開店景気が、無我夢中のうちに過ぎると、百貨店法適用第一号で受けた売り場面積半減などの経営的ハンデが、じわじわと効き始める。

経営責任者の新藤石松店長(当時専務)以下、全従業員の懸命の努力にも関わらず、業績の苦闘が続き、様々な紆余曲折を経て、やがて10年後には現在の池袋パルコに変身することになる。

私の勤務する職場は、紳士肌着売場から家庭用品売場へ、更に管理スタッフとして経営企画室勤務を経て最後はハンドバッグ・鞄売場を経験した。

昭和30年代半ばになると、戦後経済政策史に有名な当時の池田内閣による「所得倍増計画」が発表され、日本経済の高度成長と重化学工業化が急速に進んでいく。

売場には、テトロン,カシミロン、エクスランといった新合成繊維の衣料商品やデラク―ルなどの新開発の合成皮革商品が所狭しとばかりに並び、レインボ―カラ―・キャンぺ―ンといった彩り華やかなファツションの時代が始まっていた。

また、テレビや電機洗濯機、電機冷蔵庫などの家電製品、いわゆる3種の神器が大衆の憧れの生活必需品として、その後の日本人のライフスタイルを大きく変革する原動力になろうとしていた。

その時々の職場で、大野初男さん、渡辺竹之助さん、大沢清三さん、森勝郎さん、大橋時夫さん、岩田義行さんなど多くの有能な上司や先輩に恵まれた。

皆さんそれぞれに、個性的で、経験豊富な関西商人であった。多くの事を学ばせていただいた事を感謝している。



<労組結成、対立から協調へ>

東京丸物は別会社経営になっていたから、労働組合は新たに結成し直す必要があった。

京都の全丸物労組は、東京の労組結成を時期尚早と考えており、積極的な支援は期待出来なかった。

開店半年ぐらい過ぎた頃、私は当時渋谷の東横百貨店の中にあった全百連(全日本百貨店労働組合連合会)の事務所を訪ね、労組結成に付いて相談した。全百連の永利委員長(当時)は、快く全面的協力を約束してくれた。

早速、有志が集まり、極秘の内に労組結成準備委員会を作った。

メンバ―は斎藤義也さん、川勝儀門さん、辻村大司さん、玉田三郎さん、宮内勝男さんなど10数人であった。何回も会合を開いて、深夜まで組合規約案や運動方針案を検討した。

結成大会は、近くの豊島公会堂で、全従業員参加の下、全百連加盟決議も含め、大成功裏に開催した。

私は初代書記長に選任され、やがて委員長など組合三役を歴任して、東京丸物労組運営の中心的役割を担う事になる。

会社側は、当初開店間もなくであり経営が軌道に乗っていない状況下での労組結成を快く思っていなかったと思う。

開店時、東京丸物の従業員は、京都、岐阜、新宿からの出向者と新規東京採用者という四つのグル―プの混成軍であったから、複雑な人間関係があり、ややもすると相互に意思の疎通を欠く面があったように思われる。 

結成から2~3年は、労使間は対立する事が多かった。

時には、ストライキ寸前まで緊迫した事もある。

特に、新藤専務店長とは、お互いに労使の代表として、真剣に議論を重ねたものである。

だが、新藤店長、本江隆治人事部長、吉田繁人事課長などとの労使交渉の積み重ねの中で、相互に経営的理解や人間的理解を次第に深めていくようになる。

やがて、労使協調による生産性向上運動などを展開していくようになる。

何といっても、新藤店長は、長い経験に裏打ちされた信念の人であり、強烈な関西商人の匂いを発散される魅力的な経営者であった。

後年、新藤さん、杉島さんをはじめ東京丸物に在勤した人々とともに「東京丸物互丸会」という親睦会を作り、毎年大勢集まって往時を懐かしむことになるが、それも、地位の差や世代の差こそあれ、当時の厳しかった百貨店戦争を共に戦い、お互いに死線を超えてきた戦友としての堅い絆を感じていたからであると思う。

東京丸物で労使関係が緊張していた頃、日頃は京都に居られる創業者の中林仁一郎社長が珍しく団体交渉に出席された事がある。

労使間で交わされる激論をじっと聞いて居られたが、突然ご自分の財布を取り出されて、「鈴木さん、ここにわしの金が30万あるわ。これで何とかまとめてくれや」と言い出された。

全員があっけにとられたが、創業者の気迫に押されて、プラス・アルファ―として全従業員に配分する事で,急転直下妥結した事もある。大卒初任給が1万数千円のころのことである。

20歳代半ばから中林社長、新藤専務などトツプ経営者の熱い息吹に直接触れる事が出来、会社や職場の問題について、熱心に意見を交わす機会を持ち得たことは、私にとって、経営的視野を身に付ける貴重な得難い経験となった。


(以下次月号)

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