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鈴木貞夫のインターネット商人元気塾
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

農業写真家 高橋淳子

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【9月号】


<コンビニ創業戦記> 第6回
・・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・・


「T・V・B(ハワイチエ―ン)時代」


昭和48年(1975)春、新聞にキャバレ―・ハワイ・グル―プの求人広告が出ていた。
「目標日本一、全国百店舗、管理部長募集・給与25万円」とあった。
新しいチャンスを求めていた私は、この広告に惹き付けられた。
一般のサラリ―マンが35歳位で月給15万円前後の時代である。
これはまるで、五味川純平の「孤独の賭け」と同じ世界ではないか。私は応募を決意した。
当時、池袋や上野、新宿などの盛り場に、青いはっぴと鉢巻姿で、元気のよい呼び込みをやり、店頭にお客様が行列し並んでいるキャバレ―ハワイがあるのは知っていたが、客として遊びに行ったことはなかった。
ともかく応募してみようと履歴書を持って、当時、茗荷谷にあったハワイグル―プの本社に面接に行った。怪しい雰囲気の会社だったらどうしようかと、不安に思いながら行ったのだが、会社の第一印象は、非常に良かった。
受付嬢がきちんと応対してくれ、社員が礼儀正しくキビキビしていて、とても活力のある会社だと思った。1週間ぐらいペ―パ―テストや面接を繰り返した後、採用された。
その間、会社説明を詳しく受けたが、水商売ながら、高い経営理念を持っており、組織もすごくしっかりしているなと感じた。
入社してからは、驚きの連続であった。軍隊式の訓練を受けた。
約半年ほど、浅草、上野、池袋などのハワイ店でボ―イなどの現場経験の後、本社の管理部長になる。
一年後に取締役、2年後には常務取締役に就任した。普通の会社では考えられない事であった。
私が入社した頃、70店舗ほどであったハワイチエ―ンは、瞬く間に店舗数を増やして行った。
2年後の昭和50年(1975)の最盛期には、全国で1500店舗の名実ともに日本一のチエ―ンにまで拡大した。
ハワイグル―プ本部会社の南洋観光〔株〕は、〔株〕T・V・B(トライアル・ベンチャ―・ビジネス)と社名変更して、そのユニ―ク且つ積極的な経営戦略で、日本経済新聞などの主力紙の紙面を毎日のように賑あわせ、一躍注目企業となったのである。
日経流通新聞調査では、確か昭和50年度及び51年度の2度にわたって、外食産業ランキング日本一の位置を占めたはずである。
僅か2~3年の間に急成長した要因は、後でも述べるが、創業者小松崎栄社長の高い志と天才的な発想、そして卓越した経営手腕にあったと思う。
ハワイ時代で忘れられない思い出は、昭和48年(1973)秋、私が入社して間もなく開催された熱海静観荘を借り切っての「ハワイ店百店舗達成祝賀会」と、昭和50年秋、ハワイグループ全国百社・5千人を動員して行われた東京武道館での「ハワイ店1500店舗達成記念大会」である。
前の祝賀会には新入社員として、後の大会には〔株〕T・V・Bの常務取締役営業推進本部長として参加したが、会場全体を動かす地鳴りのような組織的エネルギ―の爆発に、身も心も揺さぶられるような感動を味わったことを今でも忘れない。
T・V・B小松崎社長のハワイ商法には、幾つかの優れた特徴があったと思う。
先ず何よりも、水商売の典型と言われていたキャバレ―業を、企業化し、正業化しようという強い信念を、具体的な経営戦略として実践したことにある。

・ 理念経営
  ――キャバレ―革命・水商売の産業化を目指す
・ 明朗会計で大衆商法に徹したこと
  ――楽しい充実した時間を売る
・ 時間料金制で高速回転システムをとったこと
  ――高い効率と生産性を実現する
・ 暴力団を徹底的に排除したこと
  ――安心して大衆が遊べるお店を作る
・ 母子寮・託児所など女子従業員の福祉と自立を重視したこと
  ――女性の自立と福祉に貢献する
・ 男子従業員の教育と規律を重視したこと
  ――使命感と責任感ある人材を育てる
・ メ―カ―・取引先の資金を活用したこと
  ――ユニ―クな資金調達のチャネルを拓く
・ 独自のフランチャイズシステムで急速全国展開を成功させたこと
  ――3年間で全国百社独立1500店舗展開

などが、ハワイ商法のエッセンスであったと言えよう。
今となって見れば、このような手法に目新しさを感じないかもしれないが、その当時は、将に革命的な商法であった。
そうした経営戦略が効を奏し、ハワイチエ―ンは、夜空に一瞬煌き流れる大流星群の如く、日本各地の歓楽街の夜を風靡したのである。
然し、ハワイチエ―ンのフランチャイズシステムには、意外な弱点があった。
独立させた地方分社に対する、本部の出資比率が低くかったのである。
これがやがてチエ―ンの統合力を弱め、ハワイグループ衰微に繋がっていく。

昭和49年(1974)の第一次石油シヨックは、日本の高度経済成長に冷水を浴びせ、戦後日本経済の一大転換点となったが、それに伴い生じた景気後退に加えて、ハワイの類似商法が激増するなど市場環境が急変する中で、離反する分社が増えていったからである。
小松崎社長は、脱キャバレー作戦を打ち出して、当時の上場企業であった「日活」や「東京テアトル」の買収作戦や、リゾ―トホテル、レストラン、ディスコ、クラブなどへの進出による経営多角化を懸命に図ったが、何れも「キャバレ―ハワイ」のように急成長が可能な事業分野とは云えなかった。
そんな折、ハワイの有力な取引先であった浅草の(株)ミノヤ葛谷章吾社長が、
「最近、イト―ヨ―カ堂が、町の酒販店を加盟店にして、「セブンイレブン」と言うコンビニエンスストアをやり始めています。あれ面白そうですよ」と、情報を提供してくれたのである。
直ちに、小松崎社長と共に、「セブンイレブン」の店を見て歩いた。
その頃、東京を中心に180店舗位になっていたと思う。私はすぐに「これだ」と思った。
ハワイ商法を活かして、短期間に急成長できる事業分野として最適だ、と直感したのである。
これなら、ハワイチエ―ンのように急速展開できるかもしれないと思った。
コンビニエンスストアのチエ―ンシステム構築が、どんなに大変なものであるか、その時点では、殆ど分かっていなかった。
私は唯、「やれば出来る。やらねばならぬ。」と思ったのである。
ハワイに代わる事業の柱を一日も早く作りたいと熱望していた小松崎社長は、
「鈴木さん、任せるからやってくれますか」と云ってくれた。
私の今日あるのは、この一言のお陰だといえる。
かねて、渥美イズムの熱烈な信奉者であった私は、何時の日か、必ず渥美イズムの実践者として、自ら一軍を率いて流通革命の一翼を担いたいと、心中ひそかに心を燃やしていたが、漸くその時が到来したと思った。


(以下次月号)

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