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鈴木貞夫のインターネット商人元気塾
鈴木貞夫のインターネット商人元気塾【バックナンバー】

鈴木貞夫

1956年一橋大学卒、同年現池袋パルコ入社、1976年サンチェーン代表取締役社長、


1989年ダイエーコンビニエンスシステムズ代表取締役副社長、1995年ローソン相談役、


1999年ローソン親善大使。現在ソフトブレーン・フィールド(株)特別顧問。


1992年(社)日本フランチャイズチェーン協会常任理事、副会長を歴任 。鹿児島出身

鈴木貞夫氏(すずきさだお)
1934年1月3日生

【7月号】


<コンビニ創業戦記>第26回
・・ロ―ソンのル―ツ「サンチェ―ン創業物語」・・


<サンチエ―ン・ダイエ―グル―プ時代(その8)>
――シテイ・コンビニエンスへの挑戦(6)――


「サンチェ―ンのメセナ活動(その2)」

昭和61年(1986)9月、有線による専用回線で、関東・関西・東海・600店舗をネットした、独自の24時間店内放送・「サンチェ―ン放送局」を開局した。 これは、従来のBGMだけの店内放送ではなく、ご来店くださるお客様や、24時間お店で働いているオーナーさんと従業員に、明るく、元気に、楽しく、生き生きと交流して頂けるように、「ハイタッチなコミュニケ―ションの場」を創造したいとの思いで実現したものであった。

主な放送内容は
①・歌手のオリジナル・メッセ―ジ付きの新譜紹介
②・DJ番組・リクエスト曲の提供
③・メーカーC Mの提供
④・特定商品の販売促進
⑤・キャンペーン・メツセージ
⑥・緊急店内作業情報等
⑦・24時間の生活時間帯に応じたシズル感あるBGMなどであり、
今日では、コンビ二の店内BGMは、大きく進化を遂げて当然の常識になっているが、当時のコンビニ業界では、初めての体系的で、サンチェ―ン独自の画期的な仕組みであった。

・『サンチェーン・ミュージック・バトルロイヤル=「S・M・B」』の開催
サンチェーン・ミュージック・バトルロイヤル=S・M・Bを始めた契機は、サンチェ―ン店で当時、働いていた音楽好きの店舗従業員の一人から送られてきた手紙と、その仲間バンドの演奏デモテ―プである。

その手紙には、「社長さん!自分たちバンドで作った曲を聞いてください。
気に入ったら、サンチェーンのテーマソングに使ってください。
発表の場が欲しいのです」、と書かれてあった。

当時、サンチェ―ンのヘビ―・ユ―ザ―は、ロックを好むヤング世代のお客様であり、 コンビ二で働く従業員の主力も又、やはり若者世代であった。

私が、この若者の熱意と期待に何とか応えたいと、専門家の知恵を借りて、若者の音楽文化への支援と新人発掘の登竜門、アマチュアバンドのコンテストとして企画したものが、冠音楽コンテスト「サンチェーン・ミュージック・バトルロイヤル=S・M・B」であった。

第一回「 S M B―1」 は 昭和61年(1986)11月にスタ―ト、 約500グル―プバンドのカセツトテ―プによる800曲の応募があり、 第1回グランプリ受賞者は、『メロディ・ベ―ス』、サンチェ―ン賞に『新星白玉楽団』が選ばれた。





次いで、第二回 「S M B―2」は、 昭和62年(1987)11月に開催する。約700グル―プのバンド、1200曲の応募の中から、第2回グランプリ賞に 『ALI  PROJECT』『J AG―TOY』が選ばれた。

第三回 「S M B―3」は、全国から約2300グル―プバンド、4500曲の応募を受けて、昭和63年(1988)10月に、盛大な受賞発表パ―ティを開催した。

第3回グランプリに、『STAY』『三四郎』の2組が、サンチェ―ン賞には『岩田麻里』が選ばれ、それぞれメジャ―・デビュ―を果たしたのである。



日本全国からの応募者は、年々倍増し、応募曲のレベルも高く、「すぐにでもプロとして通用するグル―プも多い」と、審査員たちに高く評価されたのである。 コンテストでグランプリを取った応募者は、実際に歌手としてデビュ―して活躍し、 ニューヨークなどの世界の舞台に挑戦したものもいる。

このイベントは、継続していれば、日本が誇るべき若者のための一大音楽イベントに育っていただろうと確信するが、その後のサンチェーン・ローソン合併の動きの中で埋没し、中断してしまったのは誠に残念であった。 (以下次号)

  
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